『声幽ネットワーク論(1)』#shohoe0308

『声幽ネットワーク論(2)』#shohoe0308

『声幽ネットワーク論(4)』#shohoe0308

『声幽ネットワーク論(4)』#shohoe0308

声幽ネットワーク論(1)

声幽ネットワーク論(2)

声幽ネットワーク論(3)

 

2-7固有声の哲学—「声」の多重化

 さて,話を戻そう.声幽は,キャラクターの数だけ,別の「声」を持つことができる.

 では,声幽は無限に「声」を持つことが出来るのかと言えば,そういうことではない.声幽の持つことが出来る条件は,生物学的にも,経済的にも限られている.1クール全てのアニメに出る声幽は,原理的に存在しない.

 声幽の声は,大きく分けて2つの次元に分割できる.キャラクターの声の次元と,声幽の声の次元である.前者を「確声記述」,後者を「固有声」と呼ぶことにしたい.

  例えば,金田朋子の例を挙げてみよう.[1]金田朋子の地声は,「金田ボイス」と呼ばれ,いわゆる「アニメ声」である.実際のアニメでも同じような声をしている.金田朋子の演じ分けることの出来る声が少ない.言い換えれば,確声記述が少ない.

  一方で,舞台女優の側面もある沢城みゆきの持つ確声記述は,非常に多い.

 だが,声幽の持つ2.5次元性は,確声記述の多少の問題ではない.固有声と確声記述の関係によって決まる.些か,箴言めいたことを言うと,2.5次元性は,声優とキャラクターのネットワークに住まう幽霊が,ささやきかける声である.その声を聞くことができるのは,人間ではなく,「動物」化した存在=萌豚だけだ.

 だが,この「固有声」という概念については,軽く触れておくだけにしておき,先に進むことにする.

2-8東浩紀と3つの「動物」

 東浩紀のキーワードの中でも「動物」は,最も重要なキーワードである.だが,一般的には,『動物化するポストモダン』のコジェーヴ的な「動物」でしか理解されていない.しかしながら,おおまかに分けて東の用いる動物という用語は,3種類に分けられる.[2]

①   コジェーヴ 消費社会論における動物(『動物化するポストモダン』)

②   ハイデガー 世界貧乏的存在としての動物(「想像界と動物的回路—形式的デリダ的諸問題」)

③   アーレント ゾーエーとビオスの対比における動物(『一般意思2.0』)

 ここで,私が取り上げたいのは,②のハイデガーの用語における動物だ.

2-9動物的な回路の存在-デリダにおけるラカン,ハイデガー批判

 東浩紀は, 「想像界と動物的回路—形式的デリダ的諸問題」の中で,ハイデガー,ラカン,デリダを論じている.その中で,デリダによるハイデガー批判,『存在と時間』の理論的パースペクティブに内在する,現存在=人間の世界解意における欠落=「als=(〜として)」構造に対する批判を取り上げる.[3]

 一方で,動物的経験とは,「として」構造の欠落によって特徴付けられる.どういうことか.現存在=人間が,世界を,意味を持った記号=言葉により理解することを意味する.ハイデガーの有名な文章がある,

言葉こそ存在の家であり、言葉のうちにこそ真理は宿り、存在の明るみが性起する限りにおいて存在を己を人間に開示する。あらゆる知の根拠である存在の開示は、生の生成過程における生の自己差異化、二重性の表れであり、現存在が脱自的に存在者に身をさらしているときに真理は体験され、感じられるのであり、驚き、感動、落涙などを伴うのである.

  東によれば,こうしたハイデガーの理解は, 「現存在がつねにオブジェクト・レベル(世界)とメタ・レベル(存在)のあいだを循環してしまうのは、ハイデガーの考えによれば、現存在が森を通り抜けるとき、つねにそれを森_¨として¨_、「森」という言葉を介して経験するから」である.こうしたハイデガーの理解は,一歩誤ると言語を媒介にする現存在者=人間中心主義に陥ってしまう.そして,そこから排除されているのが,言語を介さずに世界と関係を持つ動物的経験なのである.

 そして,東は,次に,デリダのラカン批判に着目する.こうしたラカン批判は,ハイデガー批判としても読むことができる.それは「言葉」=シニフィアンの特権化に対する問題である.ラカンにおいて,象徴界は,欲望を代理する諸シニフィアンの集積=言葉を意味する.象徴界の導入は,物=存在者への接近可能性と命名能力を不可分と見なすことを意味する.これにより,動物と人間が峻別されてしまう.さらに,ラカンの方法論では,象徴界による想像界の止揚,シニフィアンによるイメージの置き換えが求められる.[4]

 だが,デリダによれば,そうしたラカンのプロジェクトは,シニフィアンによるイメージの止揚が常に失敗する誤配可能性に満ちていることを意味するという.それをデリダはエクリチュールという概念によって説明する.

 デリダがエクリチュールと呼ぶものは,物と音,イメージとシニフィアンの混同可能性である.シニフィアンが,シニフィアン(記号)であるためには,エクリチュールとしての物質的側面を持つ.ひとつのエクリチュールはシニフィアンであると同時にイメージとして機能しうる.それによって,想像界と象徴界の往復運動が起こる.一方では欲動そのものの解体が起こり,他方では,再び「同一的なもの」へとまとめあげられる.

 ハイデガーとラカンは,言葉を特権化し,ハイデガーにおいては現存在的な世界形成と動物的な世界窮乏が混同され,ラカンにおいては,シニフィアンによる対象関係(象徴界)とイメージによる対象関係(象徴界)の間の短絡が起こる.

 「動物的な回路」を考えるためには,デリダの「エクリチュール」を導入する必要があるというのが東の結論である.

 2-10視覚中心から,諸知覚の分散状態へ

 ここで,デリダ=東がハイデガー,ラカンを批判したように,ぼくは,『動物化するポストモダン』の東浩紀に対して,批判しなくてはならない.東浩紀は,「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」の中でこのような文章を書いている.

とすれば,私たちが行うべき作業は,「目」からまた別の知覚へと判例を移すのではなく,むしろ諸知覚への分散状態,ひとつのエクリチュールを「目」や「耳」あるいは「手」(触覚的隠喩もまたし総市場は重要だ)などによりつねに複数的に捉える状態のうえに,新たな理論的言説の可能性を探ることにあるのかもしれない. [東浩紀, 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』 2011, 110]

 この諸知覚への分散状態を考えることこそ,動物的回路の存在を明らかにする手立てであったのではないだろうか.

 だが,『動物化するポストモダン』の中では,視覚以外の諸知覚の隠喩は消去されてしまっている.少なくとも,過視覚的だ.これに対して,自分は声幽について論じることで,聴覚のデータベースの存在を明らかにし,データベースの往復運動とも言える認識について論じてきた.それは,聴覚的な隠喩の揺り戻しを意図してのことだ.

 だが,この消去はなぜ起こったのだろうか.ここで,敢えて,深読みをしてみると,実は,この「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」の中にその答えが書いているように私には思われる.この中で,東浩紀が「珍しく」引用されている思想家がいる.それは,メルロ=ポンティだ.「見えるものと見えないもの」について思考したメルロ=ポンティに対して,東は,ローティと比較しながら,このような評価を与えている.

メルロ=ポンティの晩年の企ては臨界点のひとつであったと位置づけられる.なぜなら彼はそこでローティのように目の隠喩をあっさり放棄するのではなく,むしろ目の隠喩それ自身による目の隠喩の否定的な乗り越え,「見えないもの」の導入による解決を模索していたからである. [東浩紀, 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』 2011, 101]

 さらに,それは,デカルト以降の哲学の問題系,つまり,「視覚的な思考」モデル全ての批判へと繋がる.

 一方で,古い目の隠喩を放棄しつつ,他方で新しい目の隠喩を再密輸するという二重の作業,ひとたび放棄された主体理論(目の特権)を別のかたちで再設立する試みとして組織される.したがって,一方で目から古い特権(リアリズム的観察者の絶対性)を奪いつつ,他方で目に新しい特権(モダニズム的主体の自己産出性)を与える「映画」という視覚メディアは,19世紀末に精神分析とともに誕生したという時期的符号も手伝い,きわめて魅力的な理論モデルとして登場することになるだろう.

  そして,東は,20世紀は,「思想的に映画の世紀だった」という.20世紀という時代は,まさしく思想的には「視覚的」な時代であった.これは,個人的な考えだが,その「視覚的な世紀としての20世紀」というものが起こったのは,テレビ,映画といったメディアの普及でもあるが,何よりも,近代的なシステムにとって,視覚という知覚が,多くの情報量を多数の人々に伝達する手段として最も安易かつ便利にしようできるツールであったからではないだろうか.

  そろそろ,この小論も終わりのベルが近づいている.まとめに入ろう.

 東浩紀の『動物化するポストモダン』のプロジェクトは,メルロ=ポンティと同様に,「目の隠喩それ自身による目の隠喩の否定的な乗り越え」であったとしたらどうだろう.[5]『動物化するポストモダン』は,まさに過視覚的とも言えるほどに,視覚的隠喩に満ちあふれている.東がそれによって,デカルト以降の哲学的概念の更新を意図していたのだとしたら.

 しかしながら,その企てによって,サイバースペースの中での問題意識,諸知覚の分散状態をつねに複数的に捉える新たな可能性理論的言説の構築はできなかったのではないかとぼくは考える.

 視覚中心の時代(20世紀=映画の時代)はもう終わりを迎えている.ぼくは,Twitterもニコ生というメディアも視覚的であると同時に,聴覚的なメディアであると考えている.ぼくたちは,諸知覚の分散状態へと繋がる新たな批評言語を構築するべきなのだ.

問題は視覚の特権化がいつ始まったかではなく,私たちの思考がいまだその中に囚われているということだ. [東浩紀, 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』 2011, 114]

引用文献

関西クラスタ. “アニメルカ特別号『反=アニメ批評2012autumm』.” 声の幽霊が回帰する?—声幽論をめぐって. 2012. 56-67.

東浩紀. “「想像界と動物的回路—形式化のデリダ的諸問題」.” 著: 『文学環境論集 東浩紀コレクションL』, 脚本: 東浩紀. 2007.

—. 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』. 河出書房, 2011.

—. 『存在論的、郵便的−−ジャック・デリダについて』. 新潮社, 1998.

 



[1] 人気声優・金田朋子さん(40)の「ふなっしー」のモノマネが破壊力絶大で地獄発生 / ネットの声「見てはいけないものを見てしまった」http://rocketnews24.com/2013/11/27/391630/

[2] Columbus20の整理に拠っている.

[3] と書くと,些か難しいかもしれないが,もっと分かりやすい言葉で言うと,「人間が認識して,世界を構成するってことが前提になっているけどおかしくね?」である.

[4] 簡単にいえば,本当にほしいものは,同じサークルの女の子だけど,ラブプラスのネネさんでいっか的なことだ.本当に欲しい物を別のものに置き換えること.

[5] そして,それは同時に蓮實重彦の乗り越えでもある.ちなみにこの文章は東浩紀による東浩紀の乗り越えだ.(おい

リンク

声幽ネットワーク論(1)

声幽ネットワーク論(2)

声幽ネットワーク論(3)

声幽ネットワーク論(4)

『声幽ネットワーク論(3)』#shohoe0308

声幽ネットワーク論(1)

声幽ネットワーク論(2)

2-3声幽ネットワーク論

 「声幽ネットワーク論」とはなにか.少なくとも,かなり電波めいた用語であることは,確かだ.順を追って説明していこう.

 アニメ数の増加によって,ほとんどの声優は,毎クール別のアニメのキャラクターを演じることになる.ここで,重要になってくるのが,「アニメ・ラジオ」(以下,アニラジ)の存在である.アニラジでは,声優同士の会話が行われる.そこでは,アニメ・キャラクターではない「声優としての声」で,声優が喋ることになる.そこでは,声優同士の掛け合いや,大喜利などが行われる.その中で,「誰と誰の仲がいい」とか「~は夫婦」といった声優同士の組み合わせが自然と生まれてくる.同じようなことは,AKB48でも言える.Wikipedia的に,ファンの側が,声優のデータベースを二次創作していくような事例は,ゼロ年代後半いたるところで,多く見られた光景だ.ネットワーク化した人間関係のデータベースによって,現在の声優人気は生まれていると言える.

 だが,「声幽ネットワーク」の可能性は,AKB48よりもある.というと大げさだが,自分は,少なくとも,そう考えている.どういうことか.

  「声幽ネットワーク」の特徴は,接続よりも,むしろ「切断」である.アニラジは,ある一定期間で,正確には,アニメ放映期間とほぼイコールで終了する.[1]だが,アニラジは終わっても,「声優同士のネットワーク」は変わらずに存続する.そして,新しいアニメの中でもその前のアニメで仲良くなった声優とアニラジをする場合,ゲームの比喩を使えば,声優は,「強くなったままニューゲーム」をすることになる.切断と接続の連鎖によって,ネットワークの切り替えによって,声幽ネットワークは,拡大していく.縦にではなく,横に.

 そして,声幽ネットワーク論のもう一つの特徴は,その接続回路が,人間関係だけではないことだ.どういうことか.声の幽霊である声幽は,今ココの現実ではない可能世界へと接続することが出来る.つまり,アニメのキャラクターである.

 一般的なアイドルは,自分自身の持つキャラクターからしかデータベースが作成されない.人間関係もデータベースに組み込まれるが,だが,それでもアイドル自身のキャラクターを超えるものは生成されない.

 だが,一方で,声幽の場合は,演じるキャラクターのデータベースでさえも,自らのデータベースとして取り込むことが出来る.イタコは,死者を「口寄せ」によって,代理表象(represent)するが,声幽は,キャラクターに生成変化し,キャラクターは声幽に生成変化する.この双方向からの生成変化(仮に「共生成変化」と呼ぶ)によって,「新人声優」は,その声優自体のデータベースは存在しないとしても,アニメキャラクターのデータベースによって,更新され,キャラとして要素を獲得することが可能になる.

2-4 2.5次元性 

 可能世界(2次元)と接続することが出来る声幽のこの特徴をぼくは「2.5次元性」と呼ぶことにしよう. 先ほどのデリダの比喩を使うならば,声幽は,2次元と3次元のあいだの空間に住まう幽霊のような存在である.

  この「2.5次元性」というのは,2次元から3次元まで移動できる能力のことであり,決して静的なものではなく,動的なものである.[2]

 「声幽ネットワーク」の特徴は,この「2.5次元性」にあるが,それは何も声幽だけの特徴ではないだろう.一般的には,アイドルであっても,スポーツ選手であっても,こうした「2.5次元」的な存在として消費されている.だが,その中でも声幽ネットワークによって,こうした「2.5次元性」が①獲得されやすく,②持続されやすい環境が備わっていることが,声幽の特徴である.

 では次に,声幽という存在についてより深く理解するために ,補助線として,2つの問題を提起したい.声幽に近くて遠いもの.それが俳優とVOCALOIDだ.

2-5キムタク問題—俳優と声幽の差異を考える

  先ほど,ぼくは,声幽ネットワークによって,2.5次元性が①獲得されやすいこと②持続されやすいことを声幽の特徴として挙げた.①については,新人声優の例を上げて,アニメキャラクターのキャラを獲得するといったこと,アニラジによる人間関係のネットワーク構築によって獲得しやすくなることを多少説明した(つもりだ).

 では,②の持続されやすいこととはどういうことか.ここで,ぼくは,声幽と俳優の差異を考えてみたい.そして,それを「キムタク問題」と仮に設定する.

 「キムタク問題」とは,俳優としてのキムタクが,どんな配役を演じたとしても,キムタクとして,認知されてしまうことだ.今や国民的アイドルから,国民的スターとなったキムタクは,どんな役柄を演じても「キムタクドラマ」として受容され,視聴率がもし低かった場合は,キムタクドラマ不調と喧伝されてしまう.キムタクは,沫嶋黎士以前に,「キムタク」である.

 「キムタク問題」は,どうして起こるのだろうか.俳優の場合は,視覚的情報は,経年変化するとはいえある程度,固定されている.いや,正確に言えば,固定させられてしまう.これは,「ハリウッド俳優が,年をとらない」という話にも繋がる.「見られる」存在であるがゆえに,いつまでも,美しくあり続けることが求められる.だが,だからこそ,キムタクは,キムタクという呪いをうけてしまう.[3]

 だが,同じ姿をしているものが,別のキャラクターを演じるということは,難しい.それは,見る側にしても,見られる側にしてもそうだ.何度も,色々な配役を演じるうちに,次第に役柄は固定化され,俳優としての視覚的「イメージ」は凝り固まっていく.一方で,演じるということは,何か別のキャラクターになることであり,俳優自身の存在をカッコに括らなければならない.言い換えれば,キムタクという固有名を捨て,キャラクターの固有名へと生成変化しなくてはならない.だが,視覚的情報が,固定化されている俳優にとって,様々な配役を演じ分けるということは非常に難しい.

  一方,声幽の場合は,視覚的情報は固定化されない.それは,演じるアニメキャラクターが変わるからだ.同時に,多くの場合声も変化する.イメージと声の解離によって,声幽は,キャラクターのイメージというインターフェイスの背後に留まり続けることができる.イメージと声が結びつかないことによって,声幽は,2.5次元を徘徊する幽霊として存在することができる.

 さらに言えば,俳優は,声(聴覚)のデータベースと,イメージ(視覚)のデータベースが同時並行的に形成されていき,だんだんとそれが同化していくが,声幽の場合は,二つのデータベースの形成が全く別々の時間軸で形成されていく.この俳優と声幽のデータベース形成における二つの対比は,2つのデータベースの存在を示している.[4]

2-6初音ミクは,藤田咲の夢を見るか—声幽とVOCALOID

 ここでは,「初音ミクは,藤田咲の夢を見るか」という問題を設定し,声幽とVOCALOIDについて,考えたい.

 「初音ミクは,藤田咲の夢を見るか」問題とは,簡単にいえば,ミクは,声優,藤田咲の声をサンプリングしてつくられたVOCALOIDにもかかわらず,ミクの声と藤田咲の声との間には大きな隔たりがある.それは,現在のVOCALOID技術の一つの限界である.だが,技術が洗練していくことで,藤田咲本人と全く違いが分からないようになっていくとすれば,そのとき,初音ミクは,藤田咲であろうとするのか,もしくは,初音ミクであろうとするのか.より正確に言い換えれば,「初音ミクは自分のオリジナルである藤田咲になりたいという夢をみるのか」ということだ.[5]

 この問題に対する回答は非常に難しい.もし答えるとするならば,「初音ミクは,藤田咲の夢を見るかもしれない」と答えるしかない.だが,そもそも,藤田咲というオリジナルがありながら,オリジナルの存在が忘却されている初音ミクは,藤田咲になりたいという「欲望」を持つとは思えない.多くの初音ミクは,今までと同じように,「初音ミク」として歌をうたうだろう.初音ミクというデータベースは,藤田咲というデータベースを既に超えている.[6]

 2.5次元性という観点からVOCALOIDを考えてみると,初音ミクは,2次元の側から3次元に近づくことで,2.5次元性を獲得したと言える.そして,声幽とキャラクターが,共生成変化するように,初音ミクは,作曲者や絵師とともに,共生成変化する.藤田咲の声も,イラストレーターのKEIが描いた図像も,ハッキングされ,定型化されない初音ミクという存在は,常に2.5次元を漂う.



[1] 一部,アニラジが人気になったことで,例外的にラジオだけが存続するといった例や,続編が決定しているために,存続するという例もある.例えば,「絶望放送」

[2]敢えて,便宜上,「2.5次元性」と呼ぶことにするが,正確には,2.1~2.9次元性と呼ぶほうが正確だ.

[3] ゼロ年代における「キムタクの呪い」を解放した作品が,実はジブリアニメの『ハウルの動く城』である.美女の心臓を食べてしまうという噂の魔法使いの美青年ハウル=キムタクの呪いを,アニメという魔法によって,キムタクの声幽化によって,浄化する作業だったと言える.

[4] 一方で,声幽にもキムタク問題に類似した問題が起こりうる.それは,例えば,釘宮理恵だ.釘宮理恵は,ロリツンデレキャラクターを演じ続けることによって,「釘宮病」と呼ばれるほどにアニメオタクの中で有名な声優であるが,それゆえに,釘宮理恵という固有名と声が同一化されてしまっている.もちろん,『鋼の錬金術師』のアルフォンスなど,ロリツンデレキャラクター以外も演じ分けることが出来るので,そうした弊害は少ないように思われる.

[5]この問題については,アニメルカ特別号『反=アニメ批評2012autumm』の座談会「声の幽霊が回帰する?—声幽論をめぐって」で友人である朝永ミルチ論じたものに拠っている. [関西クラスタ 2012]ここでは,GUMIの「星間飛行」の話などを論じた.

元ネタはもちろんフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 (1968)だが,ニュアンスは異なる.ディックが意図していたのは,「アンドロイドは同じ人工物である電気羊の夢を見るか」という哲学的な文脈よりも,作品内のデッカードが電気羊を買うことを夢見たように,「感情を持ったアンドロイドたちは(人間のように)電気羊を欲しがるのか」という意味合いで取るべきだろう.

『声幽ネットワーク論(2)』#shohoe0308

声幽ネットワーク論(1)

2.声幽ネットワーク論

 2-1ゼロ年代における深夜アニメと声優の関係

この節では,ゼロ年代における声優の環境の変化についてまず踏まえつつ,「2・5次元性」という声優の持つ特徴について論じたい.

  まず,声優は,大辞泉によれば,以下のように説明されている.

【声優】せい‐ゆう              〔‐イウ〕

声だけで出演する俳優。アニメーションやテレビゲームなどのキャラクターの声を担当したり、外国映画の吹き替えなどを行う.

  声優は,ゼロ年代,特にゼロ年代後半から,徐々に注目を集める存在になってきた.その大きな理由として,「深夜アニメの増加」による需要が挙げられるだろう.

 下の表 0-1は,地上波,BS,CDで放送された国産のテレビアニメの本数である.カッコの中は,その年の新作で有名なタイトルの作品である.[1]

表 0‑1 地上波, BS,CSで放送された国産のテレビアニメの本数

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  そして,もう一つのグラフは,2000年から2011年にかけての深夜アニメの本数である.

表 0‑2 ゼロ年代 深夜アニメ 本数

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  明らかに深夜アニメの増加によって,日本国内のアニメ数が爆発的に増加している.このことは,わざわざグラフにするまでもなく,よく言われていることなのしれないが,改めてその急激な変化について理解することができるだろう.

 アニメ数が増えたことによって,必然として,アニメのキャラクターを演じる声優の仕事も増加した. また,ここには含まれていないが,ゲームにおけるキャラクターボイス(以下,CVと記す)の需要も増加していることからも,声優の範囲は増加し続けていると言っていいだろう.近頃では,「ガールフレンド(仮)」([2]のようなソーシャルゲームにまで声優需要が広がっている.

2-2 90年代アニメにおける林原めぐみ

 声優に対する需要の増加によって,必然的に供給も増える.それに伴って,声優が受容される社会的な環境も変化する.

 例えば,90年代のアニメでは,林原めぐみという存在は圧倒的なプレゼンスを誇っていた.現在の「声優アーティスト」のモデルを作り上げた.また,ラジオパーソナリティとしても,非常に活躍した.

 アニメを見ない人にも「声優」という存在を認知させたのは,林原めぐみであったといっても過言ではないだろう.それぐらいに,林原めぐみは,現在の声優を考える上で重要である.

 また,林原めぐみが演じたアニメを見た世代が「ゼロ年代」声優であるということも非常に重要な点である.「閣下」とも呼ばれる林原めぐみは,多くの声優にとって,尊敬の対象であり,目指すべき目標とされている.

 現在の声優界において「林原めぐみ」に並ぶ存在はいない.というよりも,正確には,そういった存在が生まれないような環境へと変化しているといった方がいい.どういうことか.

 現在のアニメは,1クールに数十ものアニメが同時並行的に,流れている.また,そのほとんどのアニメが,1クール,2クールといった短期間で,入れ替わっていく.しかも,その中で,ヒット作品になるかどうかというのは,ほとんど確率によってしか判断できないほどに増加している.どれだけ,声優が多くのキャラクターを演じたとしても,そのうち,ヒット作品に巡り会い,さらに,その中で「当たり役」に出会える確率は,非常に低くなっている.その確率は,声優の数だけ,アニメの数だけ反比例的に減少する.

 では,現在の声優には,「林原めぐみ」という存在と比較して,人気がないのかといえば,全くない.個人の人気では,「林原めぐみ」に勝てないとしても,声優全体としては,林原めぐみの頃よりも,圧倒的な人気を誇っている.水樹奈々は,紅白に出場するなどの活躍を見せているし,オリコンランキングに「アニメソング」ではない「声優アーティスト」のシングルがランクインもしている.声優ラジオも爆発的に増えている.今や空前の声優ブームとまで言われている.

 その人気の原因とはなんであろうか.次の節で,私は,「声幽ネットワーク論」というものを提示したい.



[1] http://gigazine.net/news/20121003-tv-animation-history/

[2] Amebaの恋愛シミュレーションソーシャルゲーム.キャッチコピーは「きみの声が,僕を強くする」.現在では,女性向けの「ボーイフレンド(仮)」も,サービス開始されている.何故か井口裕香のキャラクターがいない.くおえうえーーーるえうおおお

『声幽ネットワーク論(1)』#shohoe0308

どうも,あけましておめでとうございます.

shohei0308です.

長らくTwitter上で書く書くと言っていた『声幽ネットワーク論』ですが,

一応完成しました.

分量的に,一回でブログに載せるのは,あり得ない量(14000字!)になってしまったので,いくつか分割で載せていこうと思います.

ちなみに,この文章は,関西クラスタ『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』勉強会用(1月25日 @Gaccoh)に書かれたものです

当日こんな話をするかは分かりませんが,とりあえず,興味を持たれた方はぜひお越しくださいー.

では,以下,本文.

1.はじめに

1-1 データベースの可能世界

 声優という存在を肯定したい.

 そのために,この文章をぼくは書く.

 これが出発点であり,終着点だ.

 この単純な目的によって,ぼくはこの文章を書こうと思っている.

 とはいえ,それとは全く別の目的もある. 

 東浩紀の初期の著作「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」で語られていた問題が,『動物化するポストモダン』の中では,意図的に消去されているのではないかという問いを提示したい.そして,そこから,なんらかのぼくなりの答えを導き出したい.その答えは,「データベースは一つではない」ということだ.どういうことだろうか.

 ぼくの見立てでは,東浩紀は,「視覚的」な思想家である.

 『動物化するポストモダン』は,連載時,『過視的なものたち』という仮題であったことからも,分かるように,視覚的なメタファーが多く用いられている.もっとも端的にそれが現れているのが,51ページの図3であろう.主体を表すものとして,「目」が用いられている.他にも,66〜67ページの萌え要素の説明に関しても,視覚的なデータベースの話を展開している.

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 少し,余談めいた話になるが,東浩紀という思想家を考える上で,自分は,「図式化」というものが,実は重要なのではないかと考えている.例えば,『動物化するポストモダン』にしても,続編の『ゲーム的リアリズムの誕生』に関しても,新しい民主主義の形を提示した『一般意志2.0』に関しても,全て重要な部分に関しては,図によって説明されている.他にも,東浩紀の著作には,視覚的隠喩が多く,用いられている.[1]

 しかしながら,東浩紀は初期の著作においては,視覚的な事柄について論じつつも,他の知覚についても論じていた.例えば,哲学的主著である『存在論的,郵便的−−ジャック・デリダについて−−』で,デリダのキーワードである「脱構築」について説明する箇所で,このような記述をしている.

「脱構築」とはなによりもまずこのダブル・バインド,さきほどの表現を繰り返せば「目と耳のあいだの空間」の経験だ. [東浩紀, 『存在論的、郵便的−−ジャック・デリダについて』 1998, 20]

 この「目と耳のあいだの空間」という比喩は,非常に重要な論点であるため,強調しておこう.だが,ここではまだ触れずにおくとする.東浩紀はその後で,このような記述をしている.

「多義性」と「散種」の差異について,また別の観点からも整理しておく.両者の対立はいままで示してきたように,デリダにおける最も重要な隠喩対立,「パロール」と「エクリチュール」の対置に並行している.声=パロールはつねに「今ここ」,つまり現前的主体の統御下にある.対照的に,文字=エクリチュールはつねにその統御から逃れる.このごく常識的な認識のうえにデリダは,現前的主体(翻訳する主体)の還元可能性のうちに止まるパロール的多様性と,たえずそこから逸脱するエクリチュール的多様性(散種)という概念対を組み立てている.しかしここで注意すべきは,その対が彼の術語系においては一般的用法から著しく抽象化されていることである.[2]それらの語はもはや声や文字の個別的特徴についてでなく,むしろあらゆる記号に宿る傾向性を指示している.パロールそのものもエクリチュールそのものも存在せず,ある記号をパロールとして捉えるかエクリチュールとして捉えるか,その視点の差異だけがあると言ってもよいだろう.デリダが「目と耳のあいだの空間」について述べていたのは,この移動が問題だったからだ. [東浩紀, 『存在論的、郵便的−−ジャック・デリダについて』 1998, 22]

 つまり,ここで重要なのは,パロールとエクリチュールという二項対立ではなく,「二つの差異」であるということだ.視覚的時間と聴覚的時間の差異.全く別々の諸知覚の存在こそが,重要なのである.

 東浩紀は,まったく別の文章の中でも,同じようなことを述べている.

インターフェイス的主体は,スクリーン上の文字列や図像アイコンを,一方で虚構的イメージとして処理しつつ,他方で現実的シンボルとして処理する.つまり彼らはMUDの仮想人格やゲームのキャラクターを,一方で文字や絵を扱いつつ,他方で「人格」とも見なすのであり,この処理のずれ(あえて騙されること)ことが仮想現実に現実性を,またインターフェイス的主体に主体性を与える. [東浩紀, 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』 2011, 92]

 ここで言う,「インターフェイス的主体」とは,東によるポストモダン的主体の言い換えである.このインターフェイスは,シェリー・タークルが用いた「at interface value」に由来する.タークルによれば,洗練された GUI 環境をもったアップル社のマッキントッシュが登場する以前のコンピュータ文化は,スクリーン上の情報を背後で操作する主体が問題になっていたのに対して,マッキントッシュが一般化した1980年代後半では,多くのユーザがスクリーンの背後に関心がなく,そこに映っているものがすべてであり,それらを「額面通りの価値(at face value)」で受け取るような態度になった(スクリーンからインターフェイスへ).東は,この背後を認めない「at interface value」に依存する主体を「インターフェイス的主体」と呼び,インターフェイス的主体は仮想現実を一方で(目で)虚構だと知りつつも,他方で(言葉で)現実だと信じる」と書いている.

 このインターフェイス的主体は,オタクに結びつけて語られる.

「at interface value」的感性は日本では,1990年代のコンピュータ/ゲーム文化よりも早くかつ大々的に,1980年代のアニメ文化によって導入されていたと考えられる.アニメオタクは作品世界にただ没入するだけではない.オタク的感性の特徴は,特定のキャラクター(登場人物)に対して,一方でそれが絵としてどのように描かれたか,作画スタッフの癖から技法的細部にいたるまで執拗に詮索しつつ,他方でそのキャラクターがあたかも絵ではないかのように(実在の人物であるかのように)強い感情を向ける,その矛盾する二つの態度の共存にある.つまり彼らは,描かれたキャラクターを,一方でイメージ(絵)として,他方でシンボル(人間を表す記号)として二重に処理している.オタク的主体のシニカルさは,まさに想像的処理と象徴的処理のあいだの往復に支えられている. [東浩紀, 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』 2011, 106-107]

 彼らの(注:アニメオタクのこと)感情移入が向けられる登場人物の同一性は,まさに目の知覚(セル画)と耳の知覚(声),イメージとシンボルのあいだに開いた不気味な裂け目に求められている. [東浩紀, 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』 2011, 130]

 こうした長い迂回を経て,私たちは,やっと本題である「声優」について接近出来る.いや,敢えて,通常の声優と区別するために,「声幽」と表記することにしよう.声の幽霊.幽霊という比喩は,デリダが好んで使った比喩であり,東も多く使用している.

 この「声幽」について論じることで,東浩紀が『動物化するポストモダン』の中で消去してしまった「声」の問題を論じながら,複数的な声,諸知覚の分散,もう一つのデータベースである「声のデータベース」について論じたい.

 声の可能世界にようこそ.



[1] さらに,余談だが,自分は,一般的な「東浩紀に対しての誤読」の所以がここにあるのではないかと考えている.すなわち,東浩紀は「あまりにもわかりやすく図式してしまうがゆえに,あまりにも単純な誤読を招いてしまっている」.しかしながら,『動物化するポストモダン』の図がもっとも分かりやすいのだが,東浩紀の思想というのは,あくまでも動的(dynamic)なものであり,静的(static)なものではない.だから,単純に図を「そのまま」捉えてしまうことで,誤読が生じてしまうのではないか.

[2] ちなみに,自分の言う「声優」も一般的な声優そのものではなく,非常に抽象的な存在のことだ.

リンク

声幽ネットワーク論(1)

声幽ネットワーク論(2)

声幽ネットワーク論(3)

声幽ネットワーク論(4)